「五輪野球・初代優勝監督逝く」
昨日5月12日、松永怜一(まつなが れいいち)氏(90歳)が亡くなられました。
学生・社会人野球界で監督を歴任され、野球が公開競技であったロサンゼルスオリンピック(1984年)では、野球日本代表の監督として初めて金メダルに導いた方です。
実は、私の母校·法政一高(現・法政大高)の野球部監督でもありました。
私たちが甲子園に出場した時には、「23年ぶりの甲子園出場!」と言われました。
その23年前に、法政一高を春夏甲子園出場させた監督が、松永氏でした。
もう一つ、実は、があります。
元プロ野球選手の田淵幸一氏も、法政一高のOBなんです!!
そして田淵氏が、法政一高野球部に入部した時、監督だったのが松永氏なのです。(運命の出会い)
田淵氏は、甲子園出場はしなかったものの、松永氏と二人で法政大学へ進み、
監督・選手として、山本浩二選手などを擁し、六大学野球でリーグ優勝を6回も達成したのです!
その後1984年(私たちが甲子園に出場した同じ年でした)、
前述のオリンピックで、金メダルを獲得し、世界アマチュア野球連盟最優秀監督署を受賞されました。
その後も、アマチュア野球界でさまざまな要職を歴任し、野球の普及発展、技術向上に尽力をされたレジェンドです。
なんと、私が法政一高の時、そんな雲の上の存在の松永氏が、突然、野球部の練習を見学に来られ、私たちに指導や講義をしていただいたことがありました。
※松永氏が法政一高の監督を辞められてから、グランドに来られたのは初めてだったようです。
私が松永氏にお会いしたのは、それが最初で最後でしたが、今でも鮮明に覚えています。
私たちの年代は、久しぶりに甲子園出場ができるかもしれない、と
監督や学校関係者、野球部OBの先輩方から期待をされていたので、松永氏もその話しを聞いて、わざわざ来ていただいたのだと記憶しています。
私たち野球部のメンバーたちは、
雲の上の人に期待をされ、指導や講義を受け、気持ちがとても高揚したのを覚えています。
「うちのチームは、もしかしたら野球が強いのかもしれない、甲子園に行けるのかもしれない」と、
遠い夢だった「甲子園」が現実に近づくような、やってやるぞ!というような、「不思議な自信」がつきました。
たった一日の出来事でしたが、あこがれの人にお会いできたことが、普通の高校生に、とてつもない力と勇気を与え、大きな成長をさせてくれたのです。
その後、私たちは、あれよあれよと勝ち進み、春夏甲子園出場を果たすことができました。
今、コロナ禍で、リアルな人間関係が阻まれていますが、
どんなに、ITやAI、メタバース?など、が進んだとしても、
あの高校生の時に、
松永氏本人に、直接お会いして、話しをして、感じたような、「特別な気持ちや体験」は、
リアルな世界でしか、成し得ないものだと確信しています。
以上
あらためて、松永怜一さんに心から感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。
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渋谷貴博(しぶや たかひろ)
マンションあんしんセンター(MAC)
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